何も写っていない写真が表現したもの
- しろふくろう
- 2018年10月5日
- 読了時間: 3分
素人が写真についていろいろ言っても、なんの参考にもなりませんが
ここ最近で
「お!」
と驚きのあった「写真論」とか「表現技術」に関する本についてすこしだけお話したい。
そもそも論として
「写真」ってなんなのということは、それぞれの論があると思います
加工の是非とかもそうだけど、
多様な捉え方がある。
「自分のイメージを実現するために積極的に加工したっていいじゃない」
というと、
そうか! 写真は自分のイメージどおりの方が良いんだな
と思ったりする人もいるかも知れないし
いやいや
それなら絵をかいたらいいんじゃない?
※だって絵が下手なんだもん、という消極的な写真という選択なら意味はないわけで。
とか、
イメージを表現する方法は別にそれじゃなくてもいいんじゃない?
ていうそもそも論があるわけです。
写真には「被写体」があって、
「カメラ」と「記録媒体」と「光」そして、
「自分や他者が見るためのもの(プリントでもディスプレイでも)」がないとつくれない、という制限があるわけです。
その制限の中での表現、が写真
ですよね。
そのすべてのプロセスを自分でやるんです、という場合もあるし
シャッターを押す瞬間に集中している人もいます。
この頃のカメラは、高性能です。
さて、自分でどこまで関与して撮っているのか
それは、ほんとに自分の写真なのか
カメラが全部おまかせで撮ったのか
他人が作ったソフトがないとできないのか
まして、
瞳にフォーカスまでしてくれるとかね。
で、
本題はここからです。
例をひとつ上げて
「ポートレートは、手前の瞳にピントを合わせるのが定石です」
みなさん知っています。
でも、そうしたら、
あとは構図として切り取る範囲を決めて
被写体さんがポージングするだけじゃないですか?
露出もカメラがやってくれる
ピントもカメラがやってくれる
色も後でなおせるし
形だってパソコンで変えられるし
となると
自分で何を表現したくて、瞳にピントを合わせたのか
ポートレートのルールだから
みたいなことでしょうか。
そんなことを考えながらこの本を読んでいました。
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様々な歴史的なポートレートをあつめ、
その写真が何を表現し、どうすごいのか
ということを自分自身の写真のトレーニング課題と一緒に提示してくれる
なんとも面白い一冊です。
その中の
ウタ・バース Uta Barthの作品はなかなか衝撃でした。
よく多重露光とか、ぶらし、ボケの作品はありますが
このバースの作品はというと
なにも写ってない
のです。
多分、これだけ提示されたら
はあ~???
となります。
もやーん、となんからのモノは見えるけど、
なにもはっきりと写っていない「ポートレート」
さて、
これはなんだろうか
この試みは
「写真による被写体との親密さの表現」
を試みたと言います。
つまり
写真を撮ろうとファインダーを覗いた時にみえる景色がありますね
そこに、愛する人がいて抱き合っているとしましょう。
そうすると、自分の視野はその人を見ていますが
カメラ的には近くて背景に何もピントが合わない状態になります。
つまり
この「ポートレート」としてだされたものには
何もはっきり写っていないけれども
その人との関係性を、カメラを使って表現したのだ
ということです。
撮り方としては、その人との距離を意識して、
最小距離の何もない空間にピントを合わせ
シャッターを切ったわけです
結果として、背景はすべてボケて
なにも写っていない写真となります
こりゃすけ゛ーや
なるほどねって、まねしても無意味ですが
ほんとの写真表現って、こういうものなんじゃないかなと
感銘を受けたわけですよ
この頃、考えたのは、そんなこと。
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