写真は自分しか撮れないけど、誰でも撮れる
- しろふくろう
- 2017年12月28日
- 読了時間: 3分
よく
「自分の写真」
という話をする方たちがいます。
プロの方は、あまりそういう話をしなくて、
まさに「写真」で語っている方が多いです。
私みたいな素人だと、
「自分の写真らしさ」
なのか
「写真の自分らしさ」
なのか
よくわからないところですが、
個人的な考えで言えば、
素人ごときに写真の個性なんてないと思っています。
というのも
カメラというのは機械なので
ボタンを押せば、上手いとか下手とかはあるかもしれないけど
誰でも「撮る」ということができます。
つまり
撮るという行為自体には特殊性はありません。
誰でもできます。
ですから
撮るか撮らないかの選択があるだけです。
心理学でいう「性格・パーソナリティー」という言葉にあるように
性格というのは
「ある状況に対峙した時にその人が示す、ある程度一定した態度」
のことです。
性格は人それぞれであるという前提からいけば、
そして
私たちがカメラを持って、ある状況に接した時にカメラを使うことを考えれば
誰が撮る写真にも「性格」が現れるということは言えそうです。
けれども
「個々に違う」ということと「個性的である」ということはやや異なります。
最近は、レタッチソフトがあるので
その中の加工で何らかの個性を出そうとすることもあるでしょう。
それは、具体的には写真の個性ではなく
出来上がった絵の特性です。
さきほど書いたように
「ある状況に対峙した時の一定の態度」
がパーソナリティーであるとした時に
パソコンの画面で撮った写真を見て(状況)
この状況に対して「加工」(態度)を行うわけなので
段階が異なっていて
写真を撮る、というところの個性ではない、と認識しています。
そのことが
「よい」とか「悪い」とかいうことではなく
写真の個性
という範疇で扱うとき
それって個性なの?と違和感があるわけです。
ポスターなどはそうですが
もとの写真が有り(カメラマンが撮って)
レタッチャーに回し(レタッチの専門の人)
印刷業者が修正して印刷する
という時に、写真の個性てどこにあるのか
誰の作品なのか、というより、チーム的な作品かなと思ったりもします。
個人的な考えですが
写真の中で様々な主張を展開することは可能だと思っています。
その主張は、個々のものです。
個人的には
「きれいにかわいく撮る写真」
はそれはそれで素敵ですが
そこには被写体さんの個性はあっても、撮る側の個性はあまりないと思っています。
他方
こういうことをこの写真に入れ込みたい
と検討して撮る写真
その場面を狙い続ける写真には、強く個性が反映されているような印象があります。
色味
などについては、後からいくらでも修正ができますから
味のついていない素材に一定の加工をすれば同じ塩加減になって
それがその人の塩加減だ、となるの、、、、かなあ。。。
素人にはよくわからないですが
最終的には、
いい写真だな、と思えるものだったら、とりあえずなんでもいいんじゃない?
というところです。
あまりこういう話を、写真撮る人たちとしないので
一度聞いてみたいところかな
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